次はいつですか?何人ものお客様からお問い合わせを頂いた加藤仁志さんの2回目の個展である。鎬を施した加藤さんの器は、粉引きも白磁も端正で穏やかなたたずまいを見せる。作者の誠実なお人柄そのままに。 しかしリクエストを下さる方はみな加藤さんの器の使い易さに惚れてしまった人達だ。控えめな表情の器は和にも洋にも使え料理を引き立てる。例えば鎬の輪花の皿には焼き魚も盛り付けられるし、ケ−キも似合うのだ。こんなにも包容力のある器は少ないだろう。食卓の定番として揃えたい。 今回加わる瑠璃釉の器も楽しみである。
たとえば大事なことが起きた特別な一日があったとして、記憶に残るのは案外、的外れな風景だったりする。それは携帯カメラで撮った何気ない日常の一瞬に似ている。そんな瞬間をとらえたいのだと木村さんは言う。それを「さっきのあの感じ」と彼女は呼ぶ。物語を予感させる言葉だ。瞬間を発見する視点は自在に移動し、伸びやかに描かれた女性達は寛いだ様子だ。寛ぎながらも、留まってはいない。印象的に登場する猫や犬も途上。グラスやケーキでさえも食べている途中。そう、この瞬間の後に大事な何かがやって来るかもしれず、この直前に心躍る何かがあったかもしれないのだ。そんな時間の連続を想像させる作品が並ぶ。 今回はアクリル画、鉛筆画、刺繍画に加え、おしゃれな雑貨(一筆箋、てぬぐい、ブックカバーなど)も出品される。
これまでの黒陶を中心とする望月さんの作品はストイックなまでに無機質、無表情を保ち、結果として造形的なシルエットの美しさが際立つものであった。しかし最近になって作品に変化が出てきている、というより、新たに焼物らしい表情豊かな作品が加わったといった方がいいかもしれない。 焼物の特性としての“火に委ねる”過程から生じる釉の流れ、焼ムラ、貫入などの土肌の変化を、自然からの賜り物として素直に受け入れる度量が作家に備わってきたのだろう。 既にベースのフォルムの美しさに定評のあるオブジェや器がどのような表情をまとって登場するか、期待は膨らむばかりである。
陶芸家、坂井千尋さんにとって陶板や陶の立体はいわば画家にとってのキャンバスと同じだという。さしずめ素焼きの窯焚きはキャンバスを張る作業か。 素焼きが上がると、黒の釉薬で絵を描く。それは本焼を経て、墨による木版画のような、生き生きとした力強い絵に仕上がる。 モチーフは動物。ヒツジ、ウシ、ハト、ツバメ、ハリネズミ...。誰もが親しみを感じる身近な生き物たちが、見るものにソッと合図を送ってきたりナゾナゾを仕掛けてきたりする。思わず返事をしたくなってしまう。 個展では個々の作品が響きあって会場全体が一つの作品となるような楽しい空間を創り出したいと構想を練っている。
「ついて来てる?」「もちろんですよ。」少年と犬はそんな会話をしているのだろうか。二人、いや一人と一匹は信頼で結ばれた対等の関係だ。尻尾の先、四肢の先端に至るまで、筋骨がしっかりと刻まれた犬は誇り高い表情で歩いていく。のびやかな少年の肢体には何の衒いもなく、あるがままの姿で振り返る。 植田さんは、これと決めたら一日中でも見ているらしい。頭に入る、いや体で覚えるまで見続けるそうだ。徹底した観察と写実の中から掬い取られた時間が、こんな清々しいのは作家の個性、人柄のなせる技なのだろう。その結果、見る側は作品の世界にすんなりと導かれてしまう。 他にも動物や人物をモチーフにした、乾漆を中心とした小品が展示される。
竹内紘三・船山奈月 二人展
陶芸家の竹内さんと木工作家の船山さん。二人の作品を見ていると、resonance という言葉が浮かんでくる。“人の力”と“自然の力”の共鳴、或いは共振である。両者の相互補完やせめぎあいの中から、美しい音色を奏でる作品が生まれる。
竹内さんの白磁の器は、素材そのものの美しさを引きだすように極くシンプルな形に仕上げられている。そしてそこに施された釉薬が焼成という自然の力を借りて思わぬ溜まりとなって現れ、人の力だけでは成しえぬ魅力を作品に与える。これまで発表してきた白磁のオブジェも同様に、人の力で作られた造形が自然の力で破壊されていくプロセスをある一瞬で切り取ったような、いわば遺跡を思わせる作品である。
船山さんの場合には逆に、自然が育んだ、存在感ある木という素材から始まる。その一本一本の個性を損なうことのないよう可能な限りシンプルな形に仕上げる。その過程で自分自身をどのように表現できるか。素材に寄り添いながらもぎりぎりまで自己表現を試み、そのバランスがとれた瞬間の形が作品となっている。
しかしこのような説明抜きにしても、単純に二人の作品は見て美しく、器には身近に置いて使ってみたいと思わせる魅力がある。
繊細な心の動きを反映した詩情豊かな作品を発表しつづけるガラス作家の漆山みさきさん。ACCa で3回目となる個展に向けて、今彼女の心は何を表現しようとしているのだろうか? 手紙が届いた。
ココロが温かくなる、笑顔になれる、そんな作品を作りたい。 いつも見えていた物が見えなくなる。/聞こえていた音が聞こえない。/近くにあるはずの物が、実はすごく遠くにあったり、/いつでも手に取れると思っていた物が …。/いつの間にか通り過ぎていたり。/時間がすごく速かったり。/風が逃げて行ったり。 そんな時もある。 だから大切にしたい。/出会えた事。 見つけたモノ。 感じたコトを
どこの家の食器棚にもいくつかはある染付の皿や鉢。その家で代々使われてきたという懐かしい器であったり、アンティークのお店で出会い連れ帰ったものであるかもしれない。そんな器に描かれているモチーフは古典柄だが、なるほど今に残るはずと納得できるようなセンスあふれるものが多い。 そこに、自分なりのセンスや、新しいモチーフを加え、懐かしいけれど、古くさくない、日常使いの器を作りだせたらと日々制作する小野田さん。ACCa で2回目となる今回の個展でも、手描きの伸びやかさが伝わってくる暖かい器を発表してくれる。
西山さんのガラスは、余分な飾りを排する。ガラスそのものの美しさを湛えて存在している。そう感じさせる力がある。できれば近くに寄って、様々な方向から眺めてみてほしい。上、側面、底面、どこから見ても、その柔らかな美しさに魅了されるはずだ。テーブルに映る光と影までもが美しい。
最近は、吹きガラスで作られた作品が持つ、微妙な差異、ゆらぎを面白味として器に取り込もうとしているという。確かな技術の裏付けがあってこその言葉だろう。透明感は言うまでもなく、温もりが伝わってくるのはそのためなのかもしれない。
今回は吹きガラスでできる形にこだわった、ボウル、グラス、ビンなど、普段使いの器を中心に展示される。
月も、眠るのだろうか。あるいは眠る人に寄り添って、瞳を閉じているだけなのか。 その横顔は、停止した時の流れに浮かんでいるようでもあり、永遠の風に吹かれて いるようにも見える。重なりあった二つの横顔は、双子のように似ているのに、矛盾と 謎に満ちている。
07年の展示で、多くの人を魅了した高野さんの女性像は、その顔に豊かさと安らぎ を湛えていた。その顔が今回は、静謐さを増し、ミステリアスで中性的なものに深化 しているように思える。イタリア留学をはさんでの変化なのかもしれない。
なによりも、顔を造形する線、作品そのものの美しさに引き寄せられるはずだ。 じっと向かい合うと、見る人の様々な思いを受け止め、映し出してくれそうな気が するのだ。
白くて、ふくらんで、しぼんで、しわが寄って、泡立っている・・・。そんな常識を覆すガラスを想像したことがあるだろうか?それが、神代さんのガラスだ。
こだわるのは、白。「白の非情さと確かさに惹かれる」という。感情を拒むような白 の中にも、「前進への起点に転化しようとする想いを感じる」と、神代さんは言う。 命の始まりと終わりに思いを馳せる繊細さや、ガラスの中に物質の始まりと終わりを 読み解いていくような筋道だった思考から紡ぎ出された言葉だろう。
その哲学とでも呼びたいほどの思いを、作品として具現化させるのは確かな技法だ。 発泡剤を混ぜたガラスを型に入れて焼成し、それを二度焼きして、さらに奥深い表情 を生み出す。こうした複雑な制作過程についても、作家は「白くて柔らかいガラスを ショリショリとほじくっている」と控え目に、少々のユーモアを加えて表現する。
そうして存在する作品の周囲には、清澄な空気が漂っているのである。
竹本さんは近年、「ツヅレオリ」と題したシリーズの作品に取り組んでいる。色付けし焼成したガラスをピースに切断し、そのピースをモザイクのように組み合わせてさらに焼成するという。 この複雑で手間の掛る技法から生まれたモザイクは、なんと平面ではなく三次元なのだ。四角いピースの組み合わせの上にも、ぽっと別な色彩が浮かんでいる。色を重ねても濁らずに透明度を保つガラスならではの妙味だ。 そんな柔らかい色彩の響き合いは、抽象画のようでもあり、具象の景色のようにも思えてくる。林の中の木もれ日だろうか、都会のビルの谷間に浮かぶ月だろうかと。さらに近づいてみると、モザイクのピースの各々もまた、いくつもの情景を描いている。この一片はけしの花咲く丘だろうか、木々に囲まれた夜の湖だろうかと。幾重にも物語が重なり合い、広がっていく。これが、「ツヅレオリ」と名づけられた所以なのかもしれない。 今回はオブジェやプレートとともに、アクセサリーも展示される。
土に向かう清野さんの姿勢は、生半可なものではない。思いは目前の土から自然へ、環境へ、地球へと広がり深まっていく。「限りある資源である土(有機物)を、陶(無機物)へと変えたうえに、大量のCO2まで排出するやきものは、罪深い仕事だ」とさえ言う。それでも作り続けずにはいられない程、やきものには魅力があるという。だからこそ価値あるものを生み出したいのだという。 そんな清野さんの最近の作品には、謙虚さの中にも、これしかないという確信が滲んでいるように見える。実にシンプルなのに、そのフォルムは自然の中で端然と屹立するような存在感すら漂う。清野さんのひたむきな取り組みが、作品にさらなる深化を与えているのだろう。 それでいながら声高な主張など、作品のどこにも感じられない。余分な飾りを排した粉引きや貫入の器は、どんな用途にも、どんな場面にもしっくりと馴染むこと間違いなしだ。ぜひ、間近でご覧いただきたい。使い方、飾り方に様々なイメージが湧いてくるはずだから。
材となる木の特性について語る薗部さんの言葉は、それだけでも充分美しい。例えば「仕上げ鉋をかけた栂(つが)は、何かを吸い込んでいくようだ。」「楢(なら)は硬質なのに面取りの仕方で親密な表情を見せてくれる。」といった具合に、楢にも欅にも桜にも其々の美を見出す。
鉋で削る木の肌の香り、木を穿つ鏨の音など、薗部さんは五感を研ぎ澄ませて、木と向かい合う。事前のイメージやアイデアが押しのけられ、新たな発見にめぐり会うのを楽しみにしながら。そんな感覚を見る人と共有できたら、これに勝る幸せはないと作家は言う。木に寄り添うように制作された作品は、独自のたたずまいを湛えて存在している。
「プレゼントの包みをほどく時の、何とも言えないわくわく感。子供の頃から大好きだったそんな時間。これが今のものづくりの原点」だと、西川さんは言う。見る人、触れる人に「心地よい裏切り」を与えられたらと、生み出された作品は、まさにその通り。
金属なのに柔らかい質感、ほんのりと繊細な模様、意表をつく仕掛け。西川さん独自の世界だ。しかも使いやすいものたち。何を入れようか、どう使おうかと想像力を駆り立てられるにちがいない。
クリスマスの贈り物にもふさわしい、はこもの、カトラリー、アクセサリーなどが展示される。